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ヤマトタケルノミコト

9月8日
読了時間: 4分

まずは、日本人であれば一度はその名を耳にしたことがある、なじみ深い偉人を一人取り上げ、その歩みをひも解いてみたいと思います。

神社などに祀られている存在として、その名を聞いたことがある方も多いのではないでしょうか。

後世へと語り継がれてきた、この偉人の歴史、そしてその実像とは、いったいどのようなものだったのでしょうか。

彼が生きたのはいかなる時代であり、その中でどのような思いで人生を歩んだのでしょうか。

さらに、どんな生き方を選択し、その心の内には、いかなる宗教観や考えを抱いていたのでしょうか。


はじめに、『古事記』や『日本書紀』に登場するヤマトタケルノミコトの姿を簡潔にまとめたものを、お伝えいたします。



ヤマトタケルノミコトは、第十二代、景行(けいこう)天皇の皇子として生まれ、若くして優れた勇気と武力を示しました。幼名を小碓命(おうすのみこと)といい、わずか十六歳の時に父である景行天皇の命を受け、九州の熊襲(くまそ)を討つために征西に旅立ちました。小碓命は、熊襲の宴に忍び込み、油断した首長を討ち取ります。この勇敢さを称えられ、「ヤマトタケル」の名を得たと伝えられています。


九州を平定して大和へ戻ったヤマトタケルでしたが、ほどなくして今度は東国の平定を命じられます。



長い旅に出る前、伊勢神宮に仕えていた叔母の倭姫命(やまとひめのみこと)を訪ねました。倭姫命はヤマトタケルの身を案じ、神聖な剣である草薙剣(くさなぎのつるぎ)と、危急の時に使うための火打石が入った袋を授けます。


東国へ向かったヤマトタケルは、相模(駿河とも記されている)の地で敵の策略に遭います。敵はヤマトタケルを広い野原へ誘い込み、周囲から火を放ちました。

逃げ場を失い絶体絶命となったヤマトタケルでしたが、草薙剣(*1)を使って周囲の草を薙ぎ払い、さらに倭姫命から授かった火打石で迎え火を起こします。風向きを利用して炎を敵の方へ押し返し、危機を脱したのです。この出来事から、その地は「焼津」と呼ばれるようになったとも伝えられています。



その後も東へ進み、相模から上総へ向かうため、走水の海を渡ろうとします。しかし海の神の怒りによって波が激しくなり、船は先へ進めなくなりました。その時、妻の弟橘媛(おとたちばなひめ)はヤマトタケルを救うため、自ら海へ身を投じます。弟橘媛の犠牲によって海は静まり、ヤマトタケルは無事に海を渡ることができました。愛する妻を失った悲しみを抱えながらも旅を続け、ついに東国を平定します。


東征を果たしたヤマトタケルは大和への帰路につきます。尾張では妻となった宮簀媛(みやずひめ)のもとに草薙剣を置いたまま、伊吹山(いぶきやま)の神を自分の力だけで討とうと山へ向かいます。しかし、そこで現れた神を軽く考えたためか神の怒りに触れ、激しい雹や霧に襲われます。

その影響でヤマトタケルは重い病にかかり、次第に体力を失っていきました。その後も故郷の大和を目指して進み続けますが、ついに力尽きてしまいます。若くして各地を巡り、多くの戦いを乗り越えてきた生涯でした。この時ヤマトタケルは三十二歳(三十歳ともされている)であったと伝えられています。



死を前にして故郷の大和を懐かしむ歌を詠んだとされ、その魂は大きな白鳥(しらとり)となって大空へ飛び立ったと伝えられています。こうしてヤマトタケルは、勇気と知恵、愛する人との別れ、そして故郷への思いを描いた悲劇的な人物として、今日まで語り継がれています。


ここからは、現在、残されている史跡を巡りながら、彼の軌跡をたどっていきたいと考えています。

ヤマトタケルノミコトの名が残されているところをいくつかご紹介いたします。



*1:別伝では、「あるいは、ヤマトタケルの帯びた天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ)は自ずと抜けて傍らの草を薙ぎ払った。それで火から免れることができたので、その剣を名付けて草薙剣と言ったという」



#シモン

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